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1年生は探求の対話(p4c)で考えを深めます。道徳「どうしたらいいの?」という題材ですが、日常生活にもかなりの頻度で起きそうな出来事を扱っています。

ゆみこが、けいこと昼休みに一緒にブランコをすることを約束します。ところが、ともこが、けいこを「昼休み一緒に読み聞かせに行こう」と誘います。けいこは「いいよ」と承諾してしまいます。(子どもたちは「あー、やっちゃった」と反応。そりゃそうですよね。「もう、けいこったら!」って感じでしょうか。うふふ)

問いは「どうしたらいいの?」です。

では、対話に行ってみましょう。

「けいこは、最初にゆみこに誘われたのに、ともこの方に行っちゃって残念」

「そう。ゆみこと一緒遊ばないなんて残念」

子どもたちはともこの行動にも、ゆみこの行動にも「残念」としています。

担任「この3人の中で一番かわいそうなのは誰?」

「ゆみこ!」子どもたちは一斉に答えます。

担任「原因は?」

「これはともこが悪い。ゆみこが先に誘っていたを見たかもしれない。それを知っていながら、後から誘うなんて、よくない」

「そうならゆみこと遊ばせないで、けいこをとっちゃったことになる」

「でも知らなかったかもしれないよ」

「そうだね」

「だからともこはいい」

「ゆみこは約束をしていたのに・・・」

担任はいよいよ本題に切り込みます。

「ねえ、みんね。みんなもこんな経験ない?」

「私はないです」

「ぼくはたまにある」

ここまでの課題意識の持たせ方、焦点化の仕方は実に素晴らしいです。担任に拍手。

また、自分の経験を語らせようとする働き掛けもすばらしい。これは「自我関与」といって、対話を机上の空論に終わらせず、自分事として考えさせることで、道徳的実践力の向上につなげるものです。

「私はあります。3人で遊ぶ約束していたんだけど、相手が『ごめんね、別の子と遊ぶことになった』って、一緒に遊べなかったの」(このお子さん、目に涙を浮かべながら話しました。つらかったんだね。気持ち分かるよ」

「ぼくは友だちとサッカーする約束してたんだけど、ブランコしちゃったことある」

今度はすっぽかしちゃった経験が語られました。

担任「あなたは一人ぼっちにはならなかったんだよね。どんな気持ち?」

「うん。自分が約束を果たせなかったことに気付いた時は、相手に悪かったなあって思った」

担任「あなたは言いにくいことをよく正直に言えましたね。強いね」

「ぼくも似てて、体育館で遊ぼうって約束してたんだけど、別の遊びをしちゃった」

「私は、遊ぼうって誘ってたんだけど、別のこと遊ばれちゃって悲しかった・・・」

担任「1年生にはたくさんの『ゆみこさん』がいたんだね。どうすればよかったの?」

道徳で観念論で終わらせず、より実践的に具体的な方法をみんなで考えることは、非常に重要なことであると思います。さあ、1年生はこの後、どんな対話に繋げるのか!?

担任「約束してた子に、『私は〇〇さんとあそ遊ぶよ』って言えばいいの?」

子どもたち「だめー!」

「その日はゆみこさんと遊んで、翌日にともこさんと読み聞かせに行けばいいと思うよ」

「でも読み聞かせは2日連続ではしないよ」

「別の読み聞かせの日に行くってこと」

「けいこが、ともこに『ブランコ3人でやる?』って言う」

「けいこはゆみこと最初に約束してたんだから、その約束は守って、けいこに『3人でブランコやらない?』って言えばいい。ブランコは3人でもできるし」

「私は、3人でブランコをやってから、読み聞かせに行くのがいいと思う」

「それはいいかもしれないけど、ブランコしてる間に読み聞かせ終わっちゃうかもよ」

「じゃあさ、先に読み聞かせの方に行けばいい」

「3人で一緒にするのがいいよね」

「そうだね。でも読み聞かせの方に先に行ったら、読み聞かせだけで時間が終わっちゃうかもしれないよ」

「ブランコに一緒に乗って、ぐるんと回って下りたら、読み聞かせに行くのは?」

担任「みんなは3人ともが楽しく遊べる方法を考えていてとってもいいと思うよ。でも3人じゃなくて遊ぶ方法ってある?」

「3人でブランコ1回だけやって、その後読み聞かせに行ったら?」

「ブランコ1回やったら、もっとやりたくなっちゃうよ」

「じゃあ、30回とか20回漕いで交代にして、待ってる間読み聞かせに行くのは?」

おー!これはウルトラCですね。

「2人ずつで遊ぶ方法は?2人ずつで順番に遊ぶの」

「みんなさ、自分がゆみこだとしたら、2人か3人がいいの?一人ぼっちになるのは?」

子どもたち「やだー!」

「3人がいいな」

「私も3人にしてほしい」

担任「みんないいこと言ってるね。それ、みんなできます?」

おおおおおー!出たー!口ではいいこと言うけど、実態が伴わないのを打破する担任の一言!

担任「みんなは、ともこに誘われた時、ゆみこに3人でやろうって言える?」

子どもたちはう~んと考えながらも「できます」と答えます。

担任「ねえ、みなさん、ひとりぼっちのゆみこさん、作ってませんか?」

担任はぐいぐい子どもたちのうわべの発言に切り込んでいきます。そして、おもむろに1年生が考えた「いじめゼロ標語」を黒板に貼り出しました。

こどもたち「ああー」

担任「これできる?」

子どもたち「う~ん」

「いや、大丈夫!!」

「忘れてる人もいるよ」

ここで担任の名演技で、実際にあった出来事を再現します。

子どもたちは「ああ、自分たちやっちゃってたなー」って顔してます。

担任「これって学校じゃなくて、なかよしクラブや放課後わくわくスクールでなら、一人ぼっちの子を作ってもいいのね?」

子どもたち「だめー!」

担任「大丈夫ですか?本当に?」

「大丈夫です!」

対話の後は振り返りタイム。自分自身の考えの変化やこれからの思い等を言語化して文章に書きます。みんなどんなこと書いたのかな?

こんなことを書いていたお子さんがいました。大変立派ですね。素晴らしいと思います。

「わたしは、1かいあったことがありました。わたしが、わるかったとおもいました」

もう一丁探求の対話(p4c)!今度は4年生!

胎内市の音楽発表会に向けて、「どんな気持ちでこの曲を歌いたいか?」を問いに対話します。

曲は「地球星歌―笑顔のために―」です。これがまた超感動的な曲なのです。

歌詞は以下のとおりです。

 

この青空はきっと続いてる          
遠い街で誰かが 見上げる星空に
あなたの夢はきっと続いてる
遠い国の野原で 輝く虹に

あなたの毎日が 世界を創り
愛する想いが 地球へと広がる
私は祈る 明日のために
まだ見ぬ あなたの笑顔のために

この小さな手でできること
見えない糸をたどって 全てを感じること

そう 誰にでも愛する人がいる
誰の心にも 大切な場所がある
さあ その気持ちをむげんに広げて
この星をぜんぶ ふるさとと言おう

あなたの毎日が 世界を創り
愛する想いが 地球へと広がる
私は祈る 平和のために
まだ見ぬ あなたの笑顔のために
いつの日か出会う その日のために

 

担任は歌う際のテクニックではなく、気持ちを問いたかったようなのですが、果たしてどうなったでしょうか。

担任「市の音楽祭で私たちが歌う。♬「地球星歌」。みんなはどんな思いで歌いたい?」

「きれいな歌声で」

「世界の人に届くように」

「きれいな青空をイメージして」

「聴いてくれてる人に気持ちが届くように」

「私たちがこの歌を歌う時は私たちにしか歌えない歌い方をしたいと思ってる。だからそんな歌い方で、がんばって歌ってきれいに気持ちよく歌いたい」

「うん。お、築地小の4年生はすごいんだなって思ってもらえるように、笑顔も意識して歌いたい」

「歌詞を間違えないように」

「緊張しないで、笑顔で、お客さんの方を向いて歌う」

「聴いている人の心がポカポカするような声で」

「みんなに笑顔が届くように」

「ありがとうの気持ちが届くように歌う」

「ありがとうってどういうこと?」

「いつもお世話になっているとか、守ってくれているとかの人にありがとうだよ」

「上手に歌うってのも大事だけど、聴いている人がいい気持ちになるような歌声にしたいよね」

「うん。聴いている人が幸せになるような、みんなが幸せになるような」

担任「ねえ、みんなは聴いている人に何を伝えたいの?」

「ええとね、地球は悪いことばかりじゃなくて、いいことだってたくさんあるんだよって」

教師「今、日本国内では戦争は起きていないよね。でも・・・」

「世界では戦争が起きている」

「だから平和を創りたい」

「世界中の人たちが創りたいと思ってる」

教師「人だけ?」

「ううん。動物たちも」

教師「歌詞のどこに書いてある?」

「『クジラも見つめ返している』ってところです」

「世界中の人や動物たちが平和を願っている、平和を創りたいって」

「絶対に戦争を起こさないって」

「みんながそう思えば、平和に暮らせるし、戦争が起きないようにできるっていう歌詞だと思う」

「歌詞で、『わたしは祈る 平和のために』ってあるでしょう。ここで、みんなが願っているって分かる」

「歌詞では『わたしは祈る』というのが3つもあるよ」

担任「何を祈ってるんだろう?」

「平和のために」

「明日のために」

「それってどういうこと?」

「明日平和になっていてほしいってこと」

「あと、笑顔のために」

ここで担任がぶち込みます!

「平和ってなに?」

「戦争や争いがないってこと」

「幸せであるってこと」

「戦争が起きているから、世界中が平和になるように祈ろうってことを言っている」

「うん。安心して生活できるように」

教師「平和は誰が創るの?」

「みんなで創る」

教師「君たちも一緒に」

「そう」

教師「それは歌詞のどこに書いてある?」

「『あなたの毎日が世界をつくる』」

「『この小さな手でできること』も」

「『小さな手』って誰の手?」

「私たちの手。子どもの手も含めて」

「小さな手も集まればできるようになるって言ってる」

「うん。平和な世界っていう夢も実現できる」

担任「『夢』って何?」

「将来なりたいもの。職業」

「それだけじゃなくて希望とかも」

担任「夢は遠い国にも続いているって書いてある」

「夢は遠い国の人々にもある」

担任「きれいな青空は平和じゃないと見られないよね。みんなが対話で考えたことは歌詞にも表れている。この歌詞を、そしてこの対話を歌に生かしてほしい」

合唱はテクニックに走るだけでは、思いのこもった歌声にはなりませんよね。まるで国語の時間のような歌詞の読み取り。子どもたち一人一人が歌詞を自分なりに解釈して、思いを込めて歌ってほしいと思います。

宮沢賢治の超有名作「やまなし」。美しい物語ですが、昔から全国の小学生と教員を悩ませてきた難解なお話です。

担任が不在だったので、私が代わりに指導のお手伝い。

子どもたちに訊くと、この「やまなし」の学習はテストこそしていないものの、ひと通り学習は終わっているとのこと。

じゃあ、ちょっと自由にやらせてもらいましょう!わーい!6年生のみんな、勝負だ!

手塚治虫は、この作品を「戦時中の日本」のメタファー(隠喩)と読んで漫画化しています。この前の時間に、「魚」や「かわせみ」、そして「かにのきょうだい」はいったい何を表しているのか、子どもたちと私とで対話しました。

そして、この日の対話の問いは、「やまなしはいったい何を表しているのか?」です。

文学作品と手塚治虫の漫画を読み比べながらの、ショートタイムp4c(対話)となりました。

漫画版やまなしでは「やまなし」は「敵の戦闘機」であり、「やまなしが発するいいにおい」は「投降を勧めるアメリカからのビラ」として描かれています。

さあ、子どもたちは以下に読むか。対話記録をご覧ください。

私「前の時間に『やまなし』が表すものは、人々が欲しいと思っているものだと読んだ子がいたね。素晴らしい読み取りだし、そういう読み取りもあると思います。この対話では改めて『やまなし』が表すものは何か、みんなの話を聞きたいのです」

「私は『やまなし』は平和を表していると思います」

「どうして?」

「漫画では戦争反対の人が殺されたりしたでしょう。本当は反対したいし、反対だって言いたいんだけど言えなかった。でも、みんなは平和を望んでいたし、人々が欲しいと思っているものだと思うからです」

「うん。漫画の最後でかにのお父さんが、アメリカからのビラの「へいわ」という文字について、『平和・・・。いいにおいのすることばだな』って言ってるでしょう。やまなしのいいにおいは平和のにおいのするビラだし、やまなしそのものは平和を表していると思う」

「そうだね。人々は平和な世の中を欲しがっていたんだと思う」

「みんな『平和』だっていう意見みたいだけど、そうじゃないって思う人はいる?」

驚かれるかもしれませんが、これ、子どもの発言なんですよ。学級全体を視野に入れた発言。まさに「子どもがつくる学び」を体現しています。一人一人が対話のファシリテーターなんですよね。

「ぼくは、迷ってるんだ。やまなしはドボンと落ちてきたんでしょう。この時代に人々を怖がらせるような大きなものは原爆があると思うけど、どうも原爆じゃない気がするし・・・」

とここでタイムアップ。

迷いも素直に発言できるセーフティの高さが素晴らしい。

だからこそ、文学作品を多義的に読むことができるんですよね。

タイムアップになっちゃったのが実に残念。私の余計な話が長すぎちゃったのかしら。また機会があれば続きをやりたいね。

6年生は全校児童を視野に入れています。全校の挨拶がよくなるためにはどうしたらいいか対話で深めます。

まずは、現状確認です。

「校長先生が毎朝児童玄関で挨拶していらっしゃるでしょう。私校長先生にはちゃんと挨拶してるよ」

「私は低学年が私たち高学年を怖がったらかわいそうだなと思うから、優しく挨拶してる」

「私、松の子委員会の活動として、毎朝玄関で挨拶してるけど、挨拶を返す人って決まってるんだよね。挨拶返さない人はいつも返さない」

この次の発言で対話が動き始めます。

「皆さんに質問です。全校の中で一番挨拶がいいのは誰だと思いますか?先生方も含めて」

おおっ!この質問は、対話全体を視野に入れた発言ですね、よいモデルから学ぼうとする対話にしようと。素晴らしい。

「私は〇〇先生。毎朝玄関に立って私たちにあいさつしてくださっているでしょう。私たちの挨拶をよくしようって真剣なんだなって思う」

「私は担任の〇〇先生。挨拶対話(p4c)の前だったか後だったか、笑顔で挨拶してくれて嬉しかったなあ」

「私は〇〇先生。いつもなんだけど、大きな声ではきはきとしている」

「私はクラスメイトの○○さん。必ず私の近くに来て挨拶してくれるんだよ」

「私は〇〇さん。私の名前を付けて挨拶してくれるんだ」

「私は〇〇さん。挨拶するときの笑顔が素敵だと思う」

「ぼくは〇〇さん。元気に挨拶してくれる」

 

「でもさ・・・、ぼくら思春期でしょう。だから、挨拶するって少し恥ずかしいというか・・・」

「ぼくは〇〇さんの挨拶がいいと思う。教室内だけじゃなくて、教室外でも様々なところで挨拶してるよ」

「ぼくは〇〇さん。〇〇さんもわざわざ近くに来て挨拶してくれる」

「私は〇〇さん。歩いているとすれ違いざまに優しく、明るく挨拶してくれる」

「あ、私も〇〇さん。元気に挨拶してくれるよね」

「ぼくは〇〇さん。教室の一番後ろから一番前にまで聞こえるような大きな声で挨拶してくれるんだ」

「私は〇〇先生。いつも笑顔で明るく優しく挨拶してくれる。松の子委員として挨拶するときも笑顔で挨拶してくれるんだ」

「ぼくは〇〇先生。すれ違う時、絶対挨拶してくれるよ」

どんな挨拶が相手の心に響くのか語られていきました。

 

さらに別のお子さんが次の発言で対話を別次元へ持っていこうとします。

「ねえ、みんなに訊きたいんだけど、挨拶をしない人にはどうしたらいいと思う?」

理想を語り合うだけではなく、挨拶がよくなるための具体策が語られていきました。それも全校の子どもたちの挨拶がよくなるようにです。

「そうだなあ。いきなり大きな声で挨拶しようって言っても無理だろうから、毎日ぼくからコツコツと挨拶していく。そのうち慣れて自分からしてくれると思うよ。最初は小さい声かもしれないけど」

「先生から挨拶されても返せない人には、励まして必ず返そうよって勇気づける。これを毎日毎日繰り返しやる」

「そうなんだよねえ。でも私は自分からはちょっとできないかも・・・」

 

「挨拶されれば相手も少しは嬉しく感じるんじゃないかな。挨拶はした方がいいよ」

「そうだよね。挨拶はこれから生きていく中で大事なことだから、義務教育のうちに挨拶できるようにしておく必要がある」

 

「私たち、挨拶について何回もp4cしてるけど、あまりよくならないよね」

おおおおおー!この問い直しは、口先だけではなく、また、単なる行動訓練でもなく、挨拶の習慣化や挨拶に対する意識変容の難しさに直面していることを言語化していますね。素晴らしい。

そして、この問い直しにさらに自分なりに次のように解を持とうとしているのもまた素晴らしいです!

「うん、そうだね。p4cを何回もしてるのに変わらないのは、挨拶しようって意識がないからなんじゃない」

 

「挨拶できない人って、仲がいい人にしかできないのかな?」

「私、松の子委員会で朝挨拶してるけど、挨拶返してもらえない人には挨拶したくなくなっちゃう」

「でも、逆にそうだからこそ、そういう人から、たまにでも返してもらえると嬉しいよね」

「ぼくは校長先生には挨拶できるんだけど、松の子委員会の人とかその他の人には挨拶できないんだよね。だからできるようにしたい」

「慣れるとできるようになるんだと思うよ」

「みんなに訊きたいんだけど、朝立ってあいさつしてくれている松の子委員会の人には、挨拶してる?」

挙手をしてもらうと、挨拶してるって人は10人くらいでした。

「挨拶しても喜ばれないんじゃないかって思っちゃう」

「私は挨拶する方だと思うけど、挨拶しても返してもらえない時は『聞こえなかったんだな』って思うようにしてる」

「あまり関わりのない人には挨拶してもなあ」

「普段自分から挨拶していても、毎回挨拶を返してもらえないと悲しい。それが積み重なっていくと、やっぱり挨拶したくなくなっちゃうよ」

「普段挨拶してない人に挨拶すると、変な空気になっちゃいそうで・・・」

「私、挨拶なんかしても意味ないって思ってたの。でも家族で挨拶し合っていたらいい気持になっていったよ」

「私たちの学校の中だから、私たちが挨拶して、もしも返してもらえなくても大丈夫だよ」

 

「自分から挨拶してるとさ、挨拶を返してもらったとき、とっても嬉しくなるってことが分かった。今では自分から自然と挨拶できるようになったよ」

「仲いい人じゃないと、挨拶しても返してもらえないって思ってる人がいるんじゃない?」

 

私「こっそりカウンター持って、休み時間に校舎内をグルグル回って、何人の人が挨拶返してくれるかカウントするのはどう?で、結果を発表してみんなに意識してもらうの」

「ああ、それ私5年生のときやってた。こっそり数えるのもいいんじゃない?」

「そうか、秘かにカウントするのね。ゲームみたい」

「でもさ、それってずうーっとやり続けるわけじゃないでしょう。やる期間が終わったら、元に戻っちゃうかもよ」

「どうしたらいいんだろう?」

 

時間切れとなり、結論が出ない対話になりました。問いは、to be continuedとなりました。「つづく」ですね。

6年生は、ただ単に「いい挨拶とはどういうものか」と理想を語り合うだけではなく、その前に立ちふさがる心理的ハードルにも目を向け、さらにそれを乗り越えるにはどうしたらいいかにまで考え始めたのです。

1年教室前に行って、「うさちゃんの様子を見よう」っと思って行くと、1年生はちょうどこれから探求の対話(p4c)をするところとのこと。これはラッキーと一緒に混ぜてもらいました。

問いは「最近、朝、自分から誰に挨拶した?」です。

では、いってみよう!

トップバッターは勢いよくまっすぐに手を挙げていた子です。

「はいはいはーい。ええと・・・、忘れました」 がくっ。

私も発言。「ええ?あなた、毎朝、玄関で私に挨拶してくれるじゃない」

「ああ、そうだった、忘れてた」ははははは。まあ、それだけ自分からの挨拶が自然になってきたってことかしらね。

「私も校長先生に自分からあいさつしまーす」ですよねえ。朝、児童玄関で立っていると子どもたちは自分たちから挨拶してくれるのです。じゃあ、私は?私は自分からは挨拶せず、じとーっと子どもたちの顔を見ているだけ。そうすると、子どもたちは自分から挨拶してくれるんです。嬉しい朝のひと時です。

「朝起きたら、お母さんに挨拶します」

「バス停で一緒にバスに乗る友だちに挨拶します」

「私も。それで学校に着いたら〇〇さんや〇〇さんに挨拶します」

「バスの運転手さんにも」

「朝歩いていると近所の人に会うから、そういう人たちに挨拶します」おおおおおー!なんてすばらしい。地域の教育力、家庭の教育力の賜物ですね。

「そう。私も今朝やったよー!」

「お父さんとお母さんに挨拶します」

「〇〇さんのお母さんにも挨拶します」

「うん。たまに〇〇さんのパパにも会うから、会ったら挨拶します」

「朝、上学年のお兄さん、お姉さんにも挨拶します」

「私も。同じ登校班のお兄さん、お姉さんに」

「地域の人にも挨拶するよ」

私も発言。君たちが会う前にうさちゃんに校長室であったから、そのとき『おはよう』って挨拶したよ」

「私、道を歩いている人にも挨拶する」

「後ね、横断歩道で私たちが安全に横断できるように見守ってくれてる人にも挨拶する」

「学校に来るお客さんにも挨拶するよ」

様々な人が君たちの成長に関わってくれているんだね。

ここで担任が視点を変えます。

「ねえ、みんなは挨拶した方がいいんだけど、挨拶するのを忘れちゃってる相手はいませんか?」

「え?ああ、お兄さん、お姉さんに挨拶するの忘れちゃうことある」

「2年生とか」

「お母さん」

「いただきますって言い忘れちゃう」

どんどん出てきます。「先生たち」「バスの運転手さん」「隣の家の人」「友だち」「お客さん」「バス停とか横断歩道で見守ってくれてる人」「家のおじいさん、おばあさん」…

「朝眠くて、家の人におはようって言い忘れちゃうことある」

「アサガオさん」

「玄関に立ってくれてる5・6年生」

「そうそう。長いたすきをかけてるお兄さん、お姉さんね」

「『あいさつ隊』って書いてあるたすきね」

担任「みんなは朝教室に入るとき、『おはよう』って言って入るよね。その時、挨拶返してる?」

「う~ん、どうかな?返してないかも」

担任「じゃあ、私がこれからやってみるから、みんなはわざと返さないでね」

担任は元気に「おはよう!」って入ってきますが、子どもたちはし~んです。

続いて1、2人の子どもも真似してやってみますが・・・

子ども「わざと言わないってなんか悲しい」

「うん。言いたくなるよね」

「嫌な気持ちだった」

担任「みんなこういうのどう?」

「やだー!」

ここで初めて「挨拶しないことの負の感情」を身体的に理解。議論から実感への転換が起こります。

担任「じゃあ、今度は挨拶を返してみよう」と言って、数人の子どもがやってみます。今度は挨拶した方も返した方もみんな笑顔。

「何か嬉しいね」

担任「嬉しいのは何でだろう?」

「無視されていないってのが分かるからかな?」

「そう。みんなから無視されていないって分かるからだよ」

「みんなが挨拶を返していてよかったと思う」

個人的な気持ちの領域から、共同体的・倫理的な価値へ思考が広がる瞬間。単なるマナー教育を超え、「誰も排除されない関係性」をめざす方向が見えました。

「一斉に言ったからみんないい気持ちだったよね」

「うん。みんながいい気持ちになってるって分かるから、それが嬉しい」

「怖い顔されると嫌だけど、笑顔で『おはようございます』って言われると元気になる」

担任「私も嬉しかったよ。みんなの顔、にこにこになってたよ。ほらここ見て」

そこには「誘い合って、譲り合って、困っている人を手伝おう!にこにこ1年生になるように!」と学級のスローガンが掲示されていました。

「この、『にこにこ』になってたんだよ」

「確かにー!」

このロールプレイが、対話において、抽象的なやりとりから、感情を伴う深い理解に深めたのです。ここで子どもたちの態度や表情に変化が見られ、対話が質的に変わりました。これは担任にアッパレ!

この後、各自が2学期の挨拶のめあてを考えました。

挨拶が人と人をつなぎ、共同体を温かくする力をもつことを子ども自身が言語化たこの対話。

「経験の共有」→「視点の転換」→「体験的理解」→「感情の言語化」→ 「学級のスローガンとの統合」という対話の流れが図られていきました。p4c的な「共同体的探究」のプロセスが明確に表れていますね。

特に、ロールプレイが効果的に組み込まれており、思考と感情が結びつくことで、子どもたちの理解が単なる「マナーや礼儀の確認」から「人を幸せにする関係性の構築」へと深化しました。

この調子ならますますいい挨拶が響く学校になるね、きっと

私、用事があって、4年生の対話(p4c)に遅れてしまったのです。ざんねーん!でも後半だけでも参観の価値は十分にありましたよ。

ちなみに前半でどんな発言があったのか、いくつか書き出してみますね。

<挨拶できるようになるには>

「挨拶するには勇気を出す」

「まずはクラスの友だちに挨拶」

「身近な人に挨拶も」

「タイミングをはからなくては・・・」

<来校者への挨拶は>

「来校者さんに『自分は挨拶されないんだ・・・』って思わせないように」

「もしかしたら、来校者さんに助けてもらうことがあるかもしれない。そのためにも挨拶は重要」

「挨拶されたら、がんばろうって気持ちになるし」

「せっかく来てくれたお客さんだから、私たちは挨拶していい気持ちになってもらいたい」

「また築地小学校に来たてもらいたいと思ってもらえる」

「子どもたちに協力したいって思ってもらえる」

「来校者に挨拶すると、相手も自分も気持ちよくなる」

<でも・・・>

「大人には挨拶しにくい」

「でも、何も言わずに通り過ぎたら気まずい・・・」

では、お待たせしました。4年生の挨拶対話の後半戦、行ってみよう!

「挨拶はお辞儀するだけでもいいんじゃない?」

「そうかも。挨拶するってやっぱり勇気がいる。挨拶しようかどうしようか迷ってるうちに、相手が通り過ぎちゃうこともある」

「高学年にならできるけど、大人には私も挨拶は難しい」

「挨拶するのが苦手な人でも、顔を向けるだけでもしたらいいと思う」

「まずは高学年に挨拶してみようよ。恥ずかしい人は友だちと一緒に行けばいい。できる人は一人でチャレンジ!」

教師「先に挨拶されたとして、お辞儀だけで返すとどう思われるだろう?」

「う~ん、お辞儀されたことに気付かない人がいるかも」

「小さい声でも口に出して挨拶した方がいいよ」

教師「恥ずかしいし、勇気もいるけど、それでも口に出して挨拶を返した方がいいってことなんだね。それってどうやったらできると思う?」

「最初は小さい声でもいいから、まずは自分から挨拶してみるのがいいと思う」

「そうだね。慣れてくればきっと勇気も出てくるよ」

「ねえ、相手も恥ずかしいんじゃない?」

「そうかも」

「3年生とか挨拶がいい学年もある。その子たちは年上の人たちは優しいと思っているからできるんだよ、きっと」

「2年生以下の子たちにとっては、高学年の子とか大人とかには挨拶しにくいと思うけど、小さい声でもいいから挨拶しようって思ってるんじゃない?」

「自分から挨拶するのってやっぱり勇気がいる。怖いと思うこともあるだろうと思う。でも、挨拶することはいいことだと思って挨拶するんだよ」

「下の学年の子たちって挨拶いいよね。誰にでも挨拶できている。どうしてだろう?」

と、ここでタイムアップ。

さすが4年生!短時間でも、魅せる対話ですね。

ここまで赤裸々に発言できるのは、この場にセーフティがあるってことでしょう。

それにしても、下学年の方が挨拶がいいなんて、なかなか言えるもんじゃありませんよ。素晴らしい。人を褒めることって、簡単なことじゃないでしょうに。

ピグマリオン効果という言葉があります。「信頼が人を育てる」と言い換えられることもあります。人を褒めることができる人って素敵な人だなあと思います。そういう子たちなら、きっと挨拶も上手にできるはず。

相手に挨拶しないで通り過ぎる自分に違和感を感じられるほどに、成れればいいよね。いや、4年生のみんななら必ずできるよ。うん!あ、もうできてる子もたくさんいますね。

この次の記事と同じく4年生の探求の対話についてご紹介します。2連発ですっ!

先日「胎内高原の水」の製造工場の見学をしてきた4年生。これについての感想発表からこの時間はスタートしました。まずは、工場の方から教えていただいたことを紹介することから。「『胎内高原の水は飯豊連峰に降った雨や雪が20年以上かけてろ過されたものをくみ上げたものだって」「長期の保存が可能だそうだよ」「すごい軟水なんだって」「県外に出荷するのが多いんだって」「飲んで『おいしい』って言われることがあるそうだよ」・・・。

なんてったってセーフティ溢れる学級ですからね、試飲させていただいた感想も様々です。「おいしかった」「甘く感じた」というほかに「そうかな。そんなに甘さは感じなかった」なんていう意見も。

このように感想交流をした後に子どもたちが設定した問いは、「なんで胎内高原の水はスーパーとかで売られているの?」です。では、対話の様子を見ていきましょう。

「身近なスーパーだとみんなが買いやすいから、みんなが飲んでくれるでしょう。みんなに飲んでもらいたいからだと思う」

「うん。スーパーとかだとお客さんたくさん来るしね」

「いつでも買える」

「で、売り上げも上がる」

「もしかして観光スポットとかにもなったりして」

「スーパーはたくさんに人が来るから、そこに『胎内高原の水』を置いたら目立つんだよ」

「近くに工場があるから、出荷しやすいんだよ」

「胎内高原の水の工場が、スーパーの人とつながっているんだと思う」

「で、胎内高原の水が広まる」

「やっぱりスーパーの方は胎内高原の水のおいしさを知ってもらいたいんだと思うよ」

「そう。様々な人、多くの人に知ってもらいたい」

ここで私が介入。「さっきそれほどおいしさを感じないって人もいたよね。おいしさを感じる人に対しては売れるだろうけど、おいしさを感じない人にとっても、胎内高原の水の価値ってどこにあるんだろう?」

「胎内高原の水を作るには、20年以上かかるってことに価値がある」

「そう。20年以上かけてろ過してる」

「あと、超軟水だってことにも価値があるんじゃない?」

「これでご飯を炊くとおいしいんだって」

「保存がきくから、災害の時に役立つんだよ」

「うん。熱殺菌処理してるから、悪いものが入っていない」

「ねえ、スーパー〇〇のほかの店舗でも売ってるの?」

「売ってるんじゃない?保存がきく上に、安全だから」

「ほかの地域の人たちにも知ってもらいたいから、ほかの店舗でも売ってると思うよ」

胎内高原の水の価値について、かなり対話が重ねられたところで、私が介入。

「結局さ、『胎内高原の水』って私たちにとって何かの?」

「ええとね、胎内高原にとって大切なもの」

「大事な水」

「優しい水」

「赤ちゃんでも飲めるような水」

「おいしい水」

「大切な資源」おおっと!ちょっと視点が変わりましたね。

「安心安全な水」おお、また戻りました。

「どの人が飲んでもおいしくて優しい水」

「誰にとってもおいしい水」

「みんなが飲める大切な水」

「料理に使うとおいしい水」

「おいしく飲めて、長期保存できる水」

「冷たくて滑らかな水」

ここですごい意見が出されます!

「宝物」

えっ、胎内市にとって「胎内高原の水」は宝物ってこと?おおおおおおおー!

対話ではこの後、この発言、この観点が大切にされていきます。

「水って私たちだけじゃなくて生き物とかみんなにとって大事なものでしょう。でそれが私たちの地域で作られている。だから『胎内高原の水』はみんなにとって命ぐらい価値がある」

「ああ、大切な存在だよね」

「エネルギーの素」

「命と同じくらい大切なもの」

「だから、普通の水道水よりも気持ちよく飲めるんだ」

「人々を元気づけるもの」

「そうだね。逆にないと死んでしまうくらいのものだって言っていい」

「世界の人にとっても宝物」

「ああ、水がないと人は死んでしまうしね」

「『胎内高原の水』は私たちの地域で作られる水で、人にとっては命の素なんだよ」

と、ここでタイムアップ。

対話の前に「最初はおいしいとかおいしくないとかあまり思わなかった」と言っていたお子さんも、「対話をしているうちにだんだんとその良さが言えるようになった」など、対話後にはこの水の価値を再認識して、もっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになっていました。価値の再構築の対話だと言ってもいいかもしれませんね。

対話の後で新たな問いを書いた子が多数。例えば、

<問い>どうして胎内高原の水はおいしくて飲みやすいの? <自分なりの答え>みんなの帰る場所にあるから

<問い>胎内高原の水は、人々にどのように思われているの?

<問い>胎内高原の水はどのような思いで作られているの?

<問い>胎内高原の水を売ろうとしたのはなぜ?

<問い>胎内高原の水をもっと紹介したい。どうしたらいいだろう?

最後にあるお子さんの振り返りを抜粋してご紹介しましょう。

「友だちの意見を聴いて、そういうことかと思いました」

もう一つ。

「いろいろな意見が出て、新たな問いがどんどん出てきて、すごいなと思いました」私もまったく同感です!

授業の冒頭、担任が前回の挨拶についての対話(p4c)の到達点について確認します。

「前のp4cでは、知らない人、あまり関わりのない人とは挨拶できていない。でも、知らない人から挨拶されると嬉しい、ってことだったよね。そして、挨拶する上で大切なのは『勇気』と『優しさ』だって。ねえみんな、どんな挨拶がいいと思う?」

「大きな声で、元気よく!」といの一番に出されますが、こういう話合いでは定番の意見ですね。これができたらいいんだけど、なかなかねえ。

「渡れた挨拶よりも大きな声で返す」ほーほーほー。ちょっと変えてきましたね。さすが。p4cでは人との違いが強みになるとおっしゃったのはp4cの大家である新潟大学の豊田教授です。

「優しく挨拶。でも小さい声だと聞こえないから相手に届く声で」おー!いずれも少しずつ自分なりに変えて発言させていますね。

「〇〇さんの意見に似てて、近くの人には大きな声を出しすぎることなく、優しく言ったらいい」これもマイナーチェンジさせてますね。さらに「〇〇さんに似てて」という部分は対話で発言を繋げることを意識した発言と言っていいでしょう。大いに褒めると、このフレーズは今後頻出します。子どもたちの吸収力に脱帽です。

「クラスのみんなに聞こえるように」これは朝教室に入ってきて「おはよう」という場面を想定しての発言でしょう。みんななかなかいいねえ。

「相手の目を見て」

「元気よく」

「笑顔で」

「大きな声で」

こういう発言が出されると、子どもたちや担任はさらに鋭く突きます。「どうしてそう思うの?」と。

「大きけりゃいいんじゃなくて、大きすぎず、小さすぎず、ちょうどいい音量の声で」なるほど、なるほど。よく考えましたね。

「『おはよう』って言うスピードもちょうどよくね」

教師「私は『おはようございます』の『お』をはっきり言うように心がけています。

「私は知らない人に挨拶されたことがある。なんか嬉しかったよ」

この後、「知らない人」という言葉が頻出しますが、多分「全く面識のない人」というよりは、「あまり親しくない人」という意味で使われているものと思われます。

「私は自分から挨拶するようにしているよ」

「声はちょうどいいくらいの大きさで」

「そうだね、大声じゃなくて、それよりもちょっと小さめの声で」

ここで担任が対話を深めようと介入します。

「みんなは今まで挨拶してもらった中で、嬉しかった挨拶、よかった挨拶ってある?」

「友だちがお辞儀をして挨拶してくれた」おお、そうですか。

「知らない人に挨拶する時には、『おはよう』だけじゃなくて、『今日はいい天気ですね』とかって付けた方がいいみたい」

「私ね、友だちのお母さんからニコニコして挨拶されて、その後『がんばってね』って言われて嬉しかったことあるよ」

「外国に行ったとき、そこにいた外国の人全員から挨拶されたことがあるよ」おおー!

「コンビニで買い物した後、店員さんから『じゃあね』って手を振ってもらえたことがあるよ」

教師「顔の表情や手を振るなど、言葉だけじゃなくて体の動きを付けるって話が出ているね。私はね、挨拶する時には相手の方に一歩近づいてから挨拶するようにしてるよ」

「動作なら私もある。バスを降りて家に着くまで近所の人が手を振ってくれたんだよ」

「動作はないんだけど、近所の人が元気に挨拶してくれたのも嬉しかった」

「私はね、朝、バス停に行くときに様々な人がおはようって言ってくれるんだ」

君たち、愛されてるねえ。

「知らない人に挨拶したら、挨拶を返してくれたよ」おおおおおー!

担任「知らない人に挨拶したことのある人は?」

「私はある。いい気持ちになったよ。挨拶返してくれたから」

教師「知らない人に挨拶するって緊張するよね。でもそれで挨拶を返してもらえるとものすごく嬉しくなるんだ」

「うん。緊張するけど、優しいなって思う」

教師「そうだよね。怖い人だったらどうしようとかね」

「私も知らない人に挨拶したことあるけど、喜んでくれたからよかった」

「私も嬉しい気持ちになったよ」

ここまでお読みの方の中には、知らない人に挨拶して、それが不審者だったらどうするのか!?とお思いの方もいらっしゃると思います。しかし、心配することはないそうです。ある報告によると、不審者もその地域の方から挨拶されることで、「地域の一員として認められた」と感じて、犯罪を思いとどまるとのこと。また、「顔を見られた」「声を掛けられた」というだけで行動をためらう傾向があるため、挨拶自体が防犯になるそうです。

さらに、自殺予防の観点からも、「浅い人間関係(弱いつながり)を広く持つことが、自殺率の低下や生活満足度の高さに寄与している」という調査結果は、日本のいくつかの地域研究で言及されているとのことです。

挨拶ってすごい力があるんですね。

この後、対話で出てきたキーワードを生かしながら、2年生としての挨拶のめあてを作るようです。私はここまでの参観でした。

築地小学校は今年度各月に設定していた様々な生徒指導目標をを「挨拶」一本に絞って指導を重ねています。挨拶溢れる素敵な学校になるといいなあ。

3年生は挨拶についての探求の対話(p4c)。1学期に自分たちで決めためあてを自己評価し、改善策を考えます。

担任「1学期に立てためあてで『大きな声で相手の目を見て挨拶しよう』はどうだった?」

子どもたち「できましたー!」

担任「じゃあ、『誰にでも挨拶しよう』は?」

子どもたち「う~ん・・・」(しーん)」

担任「そうね。今一つだったみたいね。実は朝、5年教室と6年教室に行って私挨拶したの。その時の様子を動画で撮ったから、みんな見てみて」

ここで、担任がそれぞれの教室で「おはようございまーす!」と挨拶している様子が映し出されました。5年生も6年生も元気に明るい声で挨拶を返しています。

担任「5・6年生はすごいよね。どうしたら私たちも誰にでも挨拶できるんだろう?」

子どもたち「そうだなあ。どうしたらいいんだろう」と考え込みました。

そして、これがこの日の問いになりました。

子どもたちの対話のスタートです。

 

「恥ずかしいけど、自分から挨拶しようって思うことが大事だと思うよ」

「恥ずかしいけれど、それは最初だけでやっていくうちに慣れていって、できるようになるんじゃない?」

「ぼくが誰にでもできない理由は、年上の人には緊張しちゃうからです」

「そうだね。でもさ、『この人は毎日会っている人だ』と思えばできるかも」

「人だと思わないで、ジャガイモだとかだって思い込めばいいんじゃない?」

「ええー、そう?」

教師「そうだよ。緊張しない方法として目の前の大勢の人たちはジャガイモだとかかぼちゃだって思い込めばいいってよく言われるんだよ」

「そうだね。人だと思わないで、猫とか犬だと思えばいい」

「それでもだめなら、年下の人だって思う」

「上学年はあんまり会ったことない人だと緊張しちゃうよね」

「そうそう。普段あんまり会わない人だと挨拶しにくいよ」

「じゃあ毎日会うようにしたらいいんじゃない?挨拶するだけじゃなくて、その後少し話したり笑い合ったりすればいいと思う」

 

「ぼくさ、勇気だして挨拶しても、たまに挨拶を返してくれない人がいると嫌になっちゃうよ」

「そうやって考えると、自分が挨拶されたら、しっかり返さなくちゃね」

「返してもらえないと、勇気が出なくなっちゃう」

「逆に返してもらえると、勇気が出て、他の人にも挨拶しようって気になるよ」

 

「挨拶してくれる人もいれば挨拶してくれない人もいる。でも何回もこっちから挨拶していけば、たまにでも挨拶を返してもらえると余計嬉しくなるから、もっと挨拶しようって思えるよ」

「そうだね。誰かが挨拶を返してくれたら、他の人にも挨拶できる」

「みんなに訊きたいんだけど、挨拶返してもらえたら、他の人にも挨拶できそうな人は?」

半数くらいの子が同意しました。

「挨拶返してもらったら嬉しいしね」

「うん。『ありがとう』って気持ちになるよ」

「でもね、私、状学年の人には勇気が出せないから、なかなか挨拶できないの」

「私もそう。あんまり上学年の人がいる3階に行く機会もないしね」

 

教師「私ね、廊下を歩いてて、向こうから10人くらいの人が来たら、「おはようございます」「おはようございます」で早口で10回連続で言うよ」

「そうか。たくさん挨拶してていれば、そのうち返してもらえる」

「私は、朝バス停で待っている時には挨拶できる。そこで練習みたいにしたらいいと思う」

「ああ、練習ね。なるほど」

「ぼくは向こうから10人来たら、10回も言わないくても、1回大きな声で言えばいいと思う」

「練習を何回もしてたら、できるようになるよね、きっと」

「でも、なかなかできないんだよなあ」

「私も。上学年にはあまり自信がない。下の学年ならできるけど」

担任「なんで下の学年なら言いやすいの?」

「う~ん・・・。上の学年の人は背が高いから?」

「ねえ、みんなにも訊きたいんだけど、何で上学年には言いにくいんだろう?」

「下の学年は小さいから言いやすい。でも上の学年は大きいから言えない」

教師「上の学年には挨拶しづらい人っていう人は手を挙げて」

7人くらいが挙手。

教師「じゃあ、5・6年生に『あなたたちには挨拶しづらいんできすけど』って言ったら?」

「ははは。それはもっと言いづらいよ」

「じゃあ、1年生から順に挨拶していって、次は2年生、4年生とどんどん学年を挙げていったら?」

「それもいいかも。でも上の学年に挨拶したいんだよね。じゃあこういうのは?休み時間に担任の先生がやったみたいにみんなで行って一斉に挨拶するの」

「う~ん。

教師「6年生に直接言うのが難しいなら、6年生の担任の先生にお願いしてみる?」

「うん。お願いしてみようか」

「後ね、相手の目をじっと見るの。そうしたら『挨拶返さなくちゃ』って気付いてもらえるかも」

担任「今、上学年の人に挨拶ってことで対話してたけど、皆さんは1・2年生には自分から挨拶できますか?」

「うん、できるよ」「できまーす」などなど。

 

さあ、5・6年生から挨拶のリーダーシップをとってもらう作戦。吉と出るか、凶と出るか!?(「凶」はでないか)

乞うご期待です!

さて、2年生。p4cで自分たちの挨拶について考えを深めます。

まずは担任が口火を切ります。「みんなは1学期の挨拶のめあては『みんなに元気、勇気を贈るように笑顔で挨拶する』ってしたよね。どうだった?」

「私はまだ小さい声しか出せなかった・・・」

担任「なるほど。そうかあ。じゃあ、2学期のめあてはどうする、みんな?」

「2学期なんだから、1学期よりももっと成長しためあてにしたい」

「私も少し小さめの声だったと思う。全校のみんなに大きな声で挨拶できるようにしたい」

「うん。そうだね。クラスの人にする挨拶はできていたけど、他のクラスの人には・・・」

担任「全校のみんなが互いに挨拶できるようにするにはどうしたらいいと思う?」

「全校のみんなで遊んだらいいんじゃない?」

「私は登校するときにバス停で待っている人たちには、学年関係なく挨拶できたよ」

「毎朝、会ってたからできたのかもね。みんなで遊んで、互いに慣れたら、挨拶し合えるようになるんじゃない?」

「あんまり親しくない人に挨拶するって、勇気がいると思う」

「そうだよね。勇気を出して親しくない人にも挨拶したい」

「ぼくね、挨拶してくれた人の名前は覚えてるよ」

担任「どうしてほかの学年の人に挨拶するのに勇気がいるの?」

「普段挨拶してないからじゃない?」

「あまり関わりのない人とは仲が良くないから、挨拶するにしてもドキドキする」

おお。そうですよね。私もそうだわ。

「知らない人に挨拶するのは初めての人だからだよね」

「全く知らなくても、上の学年の人には言いづらいな」

「え?でも1年生は下の学年だよ。年下」

ここで担任が鋭く切り込んでいきます。まさに対話の着地点を見据えた介入です。

担任「挨拶しやすい人ってどんな人?」

「元気がいい人」

「いつも会っている人には挨拶しやすいよ」

「そうだね。バス停では年上、年下関係なく、挨拶してるよ」

「やっぱり仲がいい人とは挨拶しやすいね」

「私ね、信号渡った時に、登校を見守ってくれてる人に『こんにちは』って言われる」

「ぼくは学校に来るとき、中学校の先生から挨拶されたよ」

「バス停では知らない人にでも、挨拶できたよ。何でだろう?」

「花火のとき、知らない人がぼくのきょうだいに挨拶したことがあった」

担任「挨拶されてどんな気持ちになった?」

「知らない人に挨拶されて嬉しかったよ」

「うん。『こんにちは』とか『こんばんは』って言われると嬉しいよね」

「そうそう。私挨拶されると、挨拶してくれた人は優しいなって思うよ」

「相手から挨拶してもらうと、自分も今度から挨拶しようって思う」

「ああ、そうだね。自分も挨拶を返したくなるよね」

「うん。挨拶されると嬉しいし、自分も挨拶を返そうって思う」

「私はほとんど自分から挨拶してるけど、知らない人から挨拶されると特に嬉しいな」

教師「みんなの話を聞いてると、挨拶するには勇気と優しさが大事ってことみたいね」

「そう。普段話をしていない人と挨拶すると、余計話したくなる」

おおおおおー!ここら辺が対話の核心なのかな?挨拶は人間関係の第一歩。

「そうだね。だから、自分から知らない人にも挨拶した方がいい。相手をいい気持ちにさせられるもんね。みんながいい気持ちになったらいいよね」

2年生、いい対話するなあ。こうやって文字起こししててもじ~んときますもんね。

よーし、みんなで挨拶がんばろうね。

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